【 人力屋オーナー神谷嘉三プロフィール】神谷嘉三(カミタニ ヨシミツ)高校3年までの旧姓:中田(ナカタ)☆昭和30年代 おめでたいことにクリスマスの当日、九州は小倉で生まれる。 ☆昭和40年代 小倉祗園太鼓の鼓動で育ち、地元の公立小中学校に。中学生時代に初めてのバイト新聞配達を経験。一ヶ月無休の“月給”が当時は約7000円! ☆昭和50年代 憧れの県立進学校小倉高校に進学するも暗黒時代を過ごす。はっきり言って人間嫌いになる。両親の離婚&父親の死と立て続けに境遇が変化。更に一年の浪人生活を経験しこの辺で運が好転、国立の神戸大学経済学部に進学。日々バイトに明け暮れた後、まだ無名の化粧品ベンチャー「ノエビア」に入社。 ☆昭和60年代~平成初期 北九州→福岡→岡山と転勤を重ねるが、駄目営業マンのレッテルを貼られる。その後、内勤に異動し本来の自分を取り戻したが、段々と商売人に魅力を感じ始める。 ☆平成初期 サラリーマンながらもバブル景気を経験し、余暇を使ってマラソン・トライアスロン等自虐的スポーツにのめりこむ。二年間でトライアスロンレースに5回出場し、更に翌年はエスカレートしてサロマ湖ウルトラマラソン(100km)を完走。が、本来熱中すべき仕事からの逃避に過ぎないことに気付き、またあっけなくバブル崩壊し、清貧な生活に。その後、脱サラを考えるも一旦転勤辞令に従い信州松本支店に赴任。 ☆平成8年以降 平成8年2月末日、未だ進路が決まらぬまま退職。人力屋の構想は浮かぶが全く仕事につながらず、日雇い派遣フリーター→屋台店員→居酒屋店長→人力屋一本勝負→ノイローゼ&引きこもり状態→米屋で灯油の配達→宅配便配達→派遣営業社員と二足のワラジ状態を転々とした後、平成16年、3度目の正直の独立。現在に至る。「一芸八年商売十年」を身を以って知る。 ☆好きな言葉 「儲けより繁昌」(警固ベーカリー シャトール) 「握手する右手と闘う左手」(甲斐よしひろ氏) 「人間は自分の志を遂げる過程に喜びを感じる」(漫画家・故青木雄二氏) |